寺社・仏閣
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柳宗悦を引き寄せた土徳(どとく)の地
今につづく信仰と「城端別院善徳寺」

2019.12.03

「救い」という言葉に何を思うか。描くイメージは人それぞれでも、それが宗教によってもたらされるとなれば、非現実的なことと敬遠したり、胡散臭く感じたりと、好意的には受けとられにくいのではないか。しかしそれは曲解されたイメージかもしれない。

民藝運動で知られる柳宗悦は、宗教哲学者だった。彼の中では「信」と「美」は同じ物事の別の側面として、常に強く結びついていた。

浄土真宗と民藝。信仰と美について。

善徳寺にまつわる柳の逸話は、富山と民藝の深い繋がりを伝える、民藝の本質に関係するものだ。

格子戸と漆喰の街並みが美しい城端(じょうはな)の街。真宗大谷派・城端別院善徳寺はその街を見守るような場所に位置し、地域の浄土真宗信仰の中心地として人々に親しまれている。善徳寺は柳宗悦が滞在し、晩年の思索を新たな次元へとおし進めた論考『美の法門』を書き上げた場所でもある。

伺ったのは、7月末頃に毎年開かれる「虫干法会(むしぼうしほうえ)」のある日。年に1度1週間ほど、善徳寺が収蔵する宝物を、虫干を兼ねて建物中の各座敷に展示するという贅沢なイベントだ。

こんなに活気に満ちたお寺を見るのは初めてだと思った。

境内地には駐車場に入りきらなかったたくさんの車。本堂と隣の大広間には法話に耳を傾ける人々が集い、巨大な囲炉裏のある台所では、地域の人とおぼしきおかあさん方が料理と配膳に忙しなく立ち回っている。隣の食堂となる座敷には、あふれんばかりの「お斎(おとき:ご法要の後の食事)」を食べる人々。

この日の善徳寺には、静かで、おごそかで、敬虔というお寺のイメージを変える、いきいきとした賑わいがあった。浄土真宗という民衆に根ざした信仰の場だからこそ、ときにこうした、賑やかで明るい空気が流れるのだろうか。

虫干法会では約1万点にのぼるという、善徳寺が収蔵する宝物の一部、約900点が一般公開される。

善徳寺は江戸時代には加賀藩擁護のもと、越中国の真宗寺院をまとめる地位にあった。そのため、宝物には親鸞聖人の絵解き、本堂に飾られる刺繍布等の他にも、加賀藩から贈られた漆器や器、秀吉が枕元に置いていたという屏風絵など、加賀藩ゆかりのものが多くみられる。

善徳寺の境内は迷ってしまいそうなほど広大で、前述の台所や、前田利長公が宿泊したという大納言の間、前田家の子息が住職として入寺した際に使った御殿の、賊の侵入対策として紙を貼った釣り天井など、それぞれの空間に歴史があり、豊かな時間の重みを感じさせる。

室町時代、井波には後の瑞泉寺となる井波御坊(いなみごぼう)が本願寺5代・綽如(しゃくにょ)上人によって開かれていた。

彫刻から先人の願いをいただく「井波別院瑞泉寺」

そこから金沢御堂とを結ぶ導線にもうひとつ拠点がほしい、と金沢との境に本願寺8代・蓮如(れんにょ)上人がお寺を開いたのが約530年前。その後永禄2年(1559年)に城端の地に移ってきたのが現在の善徳寺だ。

「ここでは今も毎日、朝昼2回の法話が行われています。お正月もお盆休みもなく、365日です。お正月の朝でもけっこう人が来るんですよ」

お話を伺った輪番の亀渕卓(まさる)さんは、この朝昼2回の法話が善徳寺の大きな特徴だと言う。

朝は6時半にお勤め、7時半までお説教。お昼は2時から3時半まで。法話を行う僧侶は城端の他にも高岡や富山、金沢といった地域から泊りがけで訪れ、そこへ地元の人たちが集う。

なぜこの地域には今もつづく信仰が根づいてきたのだろう。

「まず蓮如上人が福井に拠点を持ち、とても効果的に北陸一帯に布教していったという歴史があります。あとは雪の降る土地だから、農閑期に黙々と藁をうちながら考える、そこに教えがスッとはいってきたのかもしれない。ただ信仰がここまで残ってきたのは、柳宗悦がいうところの“土徳(どとく)”があるからだと。これは説明のしようがないんです。生まれながらにして染み込んでいる念仏の教えみたいなものがあるんでしょうねえ」

「土徳(どとく)」とは、城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した、柳宗悦の造語だという。

何十世代にもわたって積み重ねられた念仏(感謝しながら南無阿弥陀仏と称えること)の生活、ありがたいと感謝しあう人々の心が風土になり、目に見えない力としてまた人々を育てる。自然環境や歴史の上に育まれてきた、人の「心」に無意識のうちに働きかけているもの。

耳慣れない言葉ながら、土徳の意味するところは感覚的にわかるところがある。古くから土地に伝わってきた言葉のようであり、造語であることを意外に感じる。

柳が牽引した民藝運動は、常に練り上げられた彼の理論とともにあった。概念の扱いにも長じた柳の言葉には、すっと意味の通る自然さがある。

柳は善徳寺で2度の大きな出会いを得ている。

はじめは昭和21年、五箇山の行徳寺へ行く前日のこと。それまでも福光に疎開していた棟方を訪ねるなど、南砺へ親しみを覚えつつあった柳は、地元の人々のつてから古い和讃(わさん:親鸞聖人が仏教の教えを今様(いまよう)という歌の形式にのせてつくったもの)があると聞き、善徳寺をおとずれた。

「どんな姿のものが現れるのであろうか・長年の期待が瞬間に満たされるのである。だが、何たる冥加であろうか。それは夢想だにしなかった驚くべき版本であった。全ての期待はなお小さすぎた。(中略)私は思わず感嘆の声を放った。こんなにも美しい版本を生まれてから見た事がない。」(柳宗悦『妙好人論集』)

善徳寺の広い境内を歩き進んでいくと、通りからも本堂からも隔たった場所に、柳が滞在したという離れがある。虫干法会の会期中、「色紙和讃」はその離れに展示されていた。

文字は朱に染められた紙に摺られていて、周囲には金銀の箔が散らされている。次の頁には黄色に染められた紙。そうして朱と黄が交互に現れる。とてもありがたい特別なものだが、読みやすく親しみやすいフォントには、民藝美に通じるものが感じられる。朱と黄が交互に現れるのも、今どこを読んでいるのか、わかりやすくするためだという。

善徳寺が所有する色紙和讃は、蓮如上人の5男・本願寺9代の実如上人がつくった室町時代のものだそうだが、約500年前のものとは思えないほど、色も文字も鮮明に残っている。

当時の善徳寺は信仰の中心地であり、富山に疎開していた詩人の吉井勇や俳人の前田普羅(ふら)等が出入りする文学サロンでもあった。福光にいた棟方もよく訪ねてきて、そうした面々と交流しながら、熱心に法話を聴いていたという。

すべては阿弥陀様からのいただきもの 棟方志功を支えた民藝の寺「光徳寺」

そんななか昭和23年には、静かな場所で自身の民藝美論の集大成を書きたいという柳が、一夏のあいだ善徳寺に滞在することになる。その時間ははからずも柳に大きな収穫をもたらし、民藝美論を仏教美学(これも柳の造語である)という新たな次元へ進めることになった。

ある日柳は、朝のお勤めが終わった本堂に一人のこり、お経の本をおもむろに捲っていた。その経典『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』に書かれた四十八の大願の第四願に、柳は天啓を得る。

もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好(みよ)きものと醜きものとがあるなら、私は仏にはなりませぬ(口語訳:柳宗悦『美の法門』)

つまり「仏の国のおいては美と醜との二がない(同上)」。

柳はここに民藝運動の真髄をみたとして思想を展開し、わずか1日で『美の法門』を書き上げた。

柳は常々、万物の事象は皆同じ法のもとに育まれたものであり、くまなくいきわたる法を表したひとつのかたちが宗教<信の領域>であり、別のかたちが美術、工藝といった<美の領域>だと考えていた。

民藝運動の理論的基盤となった代表的著作『工藝の道』においても、恩寵の美、工藝において衆生(しゅじょう)は救いの世界に入るなど、宗教的表現はちりばめられている。

いわく、人が生み出す美には、限られた天才のみが成しうる「美術の美」と、無名の工人が実用・多量・廉価・通常を志向するなかで生まれる「工藝の美」のふたつがある。

民藝の革新性は、「工藝の美」が「美術の美」に匹敵する、さらにはより根源的なものだと指摘したことにあったが、柳は「工藝の美」を“他力美”とも表現した。

浄土真宗の「他力」の教えとは、自然や宇宙を生み出している大きな存在に身をまかせながら、感謝して生きることを説くものだ。「工藝の美」は、自然およびその制約に身をまかせることで獲得される。どちらも、特別な才能や地位や財力がなくても成すことができる、民衆のものである。

おそらく実用に適した器を早く多くつくる行為は、人の手に、自然の一部になるような働きをさせる。用途に沿う形を、その土地にあるものを使い、たくさん、早くつくるという制限により、現れる形は「それでしかありえない」秩序を秘めたものになる。

それが美しいこと。凡夫であっても美を生み出せること。そこに恩寵がある。
そこに自然の、その法を生み出している神や仏と呼ばれる超越的存在の、加護がある。
その器は救われているし、その工人は救われている。

柳は常に心にあった美と信の結びつきが経典に実証されていると感じ、『美の法門』において、ものは本性において美醜の無いものであるのに、自我の迷いがかりそめの美醜を生み出しているのだと論じた。

さらに柳はその後「仏教美学」という領域を打ちだし、「凡(すべ)てがありのままの状態で救われる」のだと、仏教思想に基づく美学の思索を深めていく。

現代では宗教と聞くと怪しく感じ、近づきたくないと距離をとりたがる感覚が一般的ではないだろうか。救いという言葉には、根拠のない超越的な力にすがる人の姿を想像して、ぞわっとしてしまったり。しかし救いとは本来、そういうものではないのだろう。

民藝運動の始まりから90年が経ち、今では無心に器をつくる行為は誰でもできる民衆のものとは言い難い。けれども、季節を感じさせる風の匂い、旬の野菜の美味しさ、そうした小さなものにも自然の法は表れていて、そこに目を留めることで、私たちはその法と交わることができる。

生活の中で、そうしたものを理屈抜きで美しいと感じること、感謝すること。そういう状態に心を置くことが、「救い」なのではないだろうか。

ただ感謝して手を合わせる人の姿は美しい。そういう人に出会った時には、心に気持ち良い風が吹くような、きれいな水が染み込んでくるような気がする。そして、自分もそのようにありたい、と思う。

「仏教では絶対というものを人間の上には置きません。絶対があると、対象が良いものになったり悪いものになったりしてしまう。私にとってのもの、あたなにとってのもの、それらが打ち消すことのない世界にはいっていけること、それが仏教の基本なんです」

南砺には、感謝するために手を合わせる人の姿がある。そうした信仰の中心地として、善徳寺の存在感はいまだ健在である。

写真:中村億  文章:籔谷智恵

INFORMATION

水と匠オフィシャルツアー

水と匠のオフィシャルツアーでは、通常は非公開・虫干法会期間のみに公開される城端別院善徳寺の宝物を解説つきでご覧いただけます。

柳宗悦が滞在した「離れ」と色紙和讃も見学可能です。

他寺院も巡る1日コースと、善徳寺の特別拝観のみのコースがそれぞれございます。

どうぞお気軽にお問い合わせください。
問い合わせフォーム

INFORMATION

真宗大谷派 城端別院善徳寺

住所:富山県南砺市城端405
電話:0763-62-0026
拝観時間:9時〜17時
休館日:なし(要確認)
拝観案内料:400円
(係の方による拝観案内・要事前申し込み)

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