峠を超えれば金沢という富山の西端・福光に、棟方志功が疎開していた真宗大谷派寺院「光徳寺」がある。
サンパウロ(昭和30年)、ヴェネチア(昭和31年)の両ビエンナーレでグランプリを受賞し、「世界のムナカタ」と称せられる前の成熟期、昭和20年からの6年8ヶ月を棟方志功は福光で過ごした。
山門をくぐると、ぽってりとした壷や鉢がいくつも境内に置かれていて、水に浮かべられた花に心が和む。玄関で出迎えてくれるのは、インドの象に載せるものを模したという独特なフォルムの長椅子に、アフリカのベッド。建物の中には李朝の壷、沖縄のやちむん、河井寬次郎や浜田庄司といった民藝ゆかりの陶芸家の焼き物、インドの木版型、アフリカの椅子など、日本と世界各地の工芸品がさながら博物館のように展示されていて、そのいずれもが語りかけてくるように魅力的で、いつまでも見飽きることがない。
「うちみたいなことをしていると、門徒さんでなくてもいろんな人が訪ねに来られます。ここで多くの品々に出会うことが大切なことのはじまりで、その物にふれるとおのずと手をあわせたくなる。それが如来様のおはたらきに出会えとる、ということやから」
話してくださる光徳寺20世住職の高坂道人さんは、棟方に福光への疎開を勧めた18世住職高坂貫昭氏のお孫さんにあたる方だ。
貫昭氏は単なる蒐集ではなく、民藝運動への深い共感から各地の工芸品の品々を求め、伽藍に並べて愉しむことを始めた。寺の役割が厳格に定められていた時代、それは型破りなことだったという。
文学青年で『白樺』を愛読していた貫昭氏は柳宗悦の文章に感銘を受け、民藝運動に関わっていく。
「貫昭のなかでは民藝と仏法が合致していったわけやね」
柳宗悦が提唱した民藝の、名もなき職人の手から生み出された生活用具の美しさを見出す考えには、厳しい修行により「自力」で悟りを開かずとも、自然の摂理などの大きな力を信頼しそこに身をまかせることで救われると「他力」の教えを説き、僧侶や貴族など一部の人のものだった仏教を民衆へと手渡した浄土真宗と合致するものがあった。
貫昭氏は運動を通じて民藝の仲間達と交流し、昭和13年に河井寬次郎を介して棟方と知り合う。以来棟方は年に何度も福光を訪れるようになり、戦争が激化する昭和20年5月には、貫昭氏のはからいにより夫婦と子ども4人の一家揃って福光へ移り住んだ。
光徳寺には貫昭氏が棟方に頼んで描いてもらった「華厳松」という襖絵がある。
棟方はある日、光徳寺裏にある躑躅(つつじ)の咲き乱れる山から強いインスピレーションをうけて、3日がかりですった墨を細い筆3、4本を束ねたものに含ませ、互い違いにして雫を落としながら、集まってきた大勢の観衆と近所の門信徒たちが見守るなか、6枚の襖に一気に荘厳な巨松を描いた。躑躅にちなんで名づけられた「躅飛飛沫隈暈描法(ちょくひひまつわいうんびょうほう)」で描かれた「華厳松」は、今も土蔵の展示室で観ることができる。
「華厳松は小さい頃はふつうに建具として使ってましたね。生まれてからずっとこの状態の生活だったから、特別とは感じんけど、普通に考えたら不思議ですよね。美術館では作品名ついてるけど、うちの飾ってある器や椅子には何もつけてない。そのものそのものの姿を感じて、そこに耳を傾けてほしい。そこから御念仏をいただいてほしい。説明すると説明した通りにしか見えてこないからねえ。」
棟方は疎開当初高坂家の分家に間借りしていたのだが、彼には家中どこにでも絵を描いてしまう、創作意欲の塊のような特性があった。
「分家の家も、ありとあらゆるところに描いてあった。貫昭は気にしなかったけど、おじさんは戦争から帰ってきたら家じゅうに絵が描いてあるのに驚いて、ぜんぶ張り替えてしまって。棟方さんを支えていた人の中には、御礼に絵をもらっても、理解できずに捨てた人もいたと思うし、また棟方さんの魅力にとりつかれていった人もいたと思う。皆が棟方さんをそれぞれに支えとったのは確か。福光に6年も住んだのは、居心地が良かったんやと思いますよ」
福光をはじめとする北陸一帯は蓮如上人が布教に歩いた地域で、光徳寺も室町時代にたたら衆(製鉄業)をしていたご先祖が布教を受け、念仏道場を開いたことに始まる。さらにご本尊の黄金阿弥陀仏は蓮如上人自らたたらを踏まれ作られたものだという。
この地域ではお寺さんは毎日集落の月命日に門徒さんのお宅を参りに歩く。それほど丁寧に家々をまわっているところは、浄土真宗の信仰深い門徒が多い北陸でも珍しい。
棟方が疎開していた当時は365日どこかでご法話が話され、棟方はそうした集まりに常に出掛けて行った。そうしてそれまで河井寛次郎や水谷良一等から教えられ頭には入っていた仏法の教えが、日々の生活のなかで身体に入っていった。
棟方が師と仰いだ柳宗悦は福光で描かれた棟方の画をみて、それまでの画に感じられていた我執の濁りが消えたことに驚いたという。
「いままではただの、自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、
その足が自然に他力の世界へ向けられ、富山という真宗王国なればこそ、
このような大きな仏意の大きさに包まれていたのでした。(中略)
身をもって阿弥陀仏に南無する道こそ、板画にも、
すべてにも通ずる道だったのだ、ということを知らされ始めました。
誰も彼も、知らずの内、ただそのままで阿弥陀さまになって暮らしているのです。(中略)
富山では、大きないただきものを致しました。
それは「南無阿弥陀仏」でありました。(棟方志功『板極道』[中公文庫])」
「他力」を言葉だけで理解することはおそらく難しい。それは論理的に理解する類のものではなく、自分を超える“大きなもの”に触れるような経験を通じて、また人から人へと伝わり、身体のなかに入ってくるようなものなのだと思う。
毎日仏様に感謝して、手を合わせること。そうした人々の暮らしが何代にも渡って継がれてきた土地の空気。何よりそこに暮らす人々から影響を受けて、感化されて、棟方は仏法を体得していった。
自分の画には自分の責任がない、版木にすでに仏様が描いてくださったものを表すだけ。東京帰還後に再び福光を訪れた際、箱書きを記す折に中の作品を広げてみせてると、棟方は自分の描いた絵に自分で驚き、絶賛したという。
「それは普通では考えられませんよね。自分の描いた画は自分のものじゃない、それをほんとうに身に感じられた姿だろうと。何もかも阿弥陀様からいただいたもの、ここにきて真宗の念仏に触れたことで、よりいっそう他力の世界に生きられた。そうして棟方芸術の根幹ができ、世界のムナカタに成っていったんだと思いますねえ」
文章:籔谷智恵
躅飛山・光徳寺
住所:南砺市法林寺308
電話:0763-52-0943
拝観時間:9時〜17時
休館日:木曜日・年末年始
拝観料500円