青々とした山並みのふもと、城端の野口という農村集落に、日本各地、今では海外からも絶えずお客様が訪れるオーベルジュ「薪の音」がある。
屋敷林に囲まれた農家の家並みには旅館街や住宅街とは違う重厚な空気が流れていて、たちこめる緑の匂いが心地良い。あたりに馴染んでいる民家の引き戸を開けると、高い天井や梁で構成された意外性のある空間がひらけ、窓で切り取られた山と田畑が際立って見える。
オーベルジュというのは宿泊機能を持つレストランを指すフランス語で、郊外で食事を振る舞うシェフやオーナーが遠路はるばる来てくれた客を店に泊めたことが発祥と言われる。つまりオーベルジュの主体はレストランであり、食事だけの利用もできる薪の音のレストランには近隣の人も多く訪れるという。
「地のものを美味しく食べてもらうことを徹底しています。色々な地域へ行ったけれど、富山はもしかしたら食材はどこよりも恵まれているかもしれない。海が近いから魚介類が新鮮で、山の幸もある。ですからできるだけ余計な味付けをせず、素材を活かすことを目指しています。フレンチだけれども濃厚な味付けはまずしません」
和やかにお話しくださるのは館主の山本誠一さん。薪の音の味の基盤は、山本さんがオーベルジュを構想中にある店で出会った魚介の軽い薫製にある。田園の雰囲気をまとった魚の味に強く惹かれ、「これだ」と思った。薪の音という名前やロビーに設えた暖炉にも通じる、人が安らぎを感じられるような火と土の気配。現シェフは当時その店で働いていた若者で、盛りつけにも趣向を凝らしながら、薪の音らしい料理を日々研鑽している。
ご本人の柔らかくも洗練された雰囲気からは意外に感じられるのだが、山本さんは江戸時代から続く農家の7代目でもある。そのため食材として何よりも思い入れがあるのは、自らつくるお米。最高に美味しい状態で食べてほしいと竃(かまど)で炊くご飯は、ひとつの名物になっている。
「このあたりは川から水を取り入れてる一番上流の集落なんです。ほんとうに美しい、飲めるくらいの水で、そのかわり冷たいからたくさんのお米はとれない。収量が少ない分凝縮されるものがあるんだと勝手に思っているんですが」
この土地で農家として7代続いてきたが、あたりはそういう家ばかりだから特別古いとは思わない。変わったのは、山本さんの提案で田畑を集落共同で管理するようになったこと。個人でやるよりもずっと合理的で、何より手入れができずに荒れるところが出てこない。最近は大卒の若者を地区外から呼び入れる等、組織も少しずつ変化している。
「田畑が荒れるとここから見える景色が変わってしまう。風景も味わってもらいたいもののひとつだから、土地の生態系を含めて考えていかないといけません。効率的で継続できる仕組み、持続可能なものをやろうというのは考え方の原点にありますね」
「役場に勤めていたときから、これからは企業誘致をするとか住宅団地を整備するとかっていう活性化とは違う、ここにある地域資源に磨きをかけることが重要だと思っていました」
若い頃から兼業農家としてお米を作ってきた山本さんだが、薪の音をオープンする以前は城端の町役場に約30年間勤めていた。地域の活性化、産業振興等の仕事に長らく携わるなかで湯布院の老舗旅館の方々と出会い、旅館が辺鄙な場所に人を、それも一流と称されるような人を呼び、土地を活性化していることを目の当たりにする。地域のために必要なのはこういうことなんじゃないか。市町村合併などいくつかの要素が重なり一念発起、生家を解体しそこにオーベルジュを建てた。
今でこそ地域資源をいかす、ということはひとつのスタンダードになっているけれど、薪の音がオープンした2005年当時は、温泉でも観光地でもないこんな場所に人がくるわけないと地域の人には理解されなかった。料金も1泊3万円から5万円と、決して安い金額ではない。
「役場時代の仕事で関わった方に、田舎やからとか、富山やからという甘い気持ちで作ったらぜったいにうまくいかんと、提供するサービスもすべて一流のものをやらないととすっぱく言われて。湯布院の方々にも同じことを言われたんです」
里山を活かしたどこに出しても恥ずかしくない一流のオーベルジュを作る。それができれば、美味しいものに対しての経験値が高い人にきっと伝わる。山本さんには根拠のない自信があったという。
自信はおそらくそれまでの経験からくる手応えに裏打ちされていたのだろう。オープンした年の暮れにテレビで取り上げられ、それからは婦人画報、家庭画報、和楽などの雑誌にも掲載、首都圏からのお客様が増えていく。近年ではフランスのグルメガイド本「ゴ・エ・ミヨ」のホスピタリティ賞、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」の「日本の小宿」部門での選考審査員特別賞も受賞。2回3回と繰り返し足を運ばれる方も多い。
「私は旅のコンシェルジュなんです。翌日のお昼ごはんや買うお土産まで、何がいいか尋ねられたら、お客様のお好みをお聞きして、自分なりのネットワークのなかでお伝えする。そうして地域と人を繋ぐ。もちろん料理やお風呂など宿泊体験はベースにあるけれど、旅を何よりも豊かにするのは人との出会いだと思っています」
お土産ひとつとっても、食べ物もあれば身につけるものもある。何をお勧めするのが良いか、音楽や洋服、車の好みまで、山本さんは会話のなかで感じられるお客様の好みにそって「その方にとってのベストなもの」をきめ細やかに提案する。
とにかくこの土地を楽しんでいってほしい。祭りの日やホタルの季節には車を出したり、近隣を案内したり。そうして歓ばれた方は、結果として繰り返し来てくださる。お客様に満足してもらうことが、人の流れを生み、地域に活気をもたらす。小さな循環でも、むしろ想いの伝わる方に来てもらうことが大切だと考える。
2015年に金沢にもうひとつの薪の音をオープンさせたのも、根底にあったのはお客様のために、そしてこの土地のためにという想いだった。
「お客様の大多数がやはり金沢にいかれて、ほとんどの方から金沢という言葉が出て来ます。そうすると拠点をひとつ持つことが、ここのためにもなると思ったんですね」
豊かな食文化に触れてほしい、と金沢では連泊のお客様には好みにあわせて他店での夕食も紹介する仕組みをつくった。金沢と城端両方の薪の音に泊まるプランも好評で、特に海外のお客様の利用が増えている。また瑞龍寺と提携したオリジナル体験プランなど、これからは富山県西部の伝統工芸をじっくり体験してもらうようなものも増やしていきたいという。
「地域資源というのは、ここにあるもの全てです。農産物であり、山並みや田園の景色であり、御祭り等の伝統文化であり、暮らす人々であり。ここにある、この空気の中で食べることが、美味しい、ということなんだと思います」
文章:籔谷智恵