例年よりも遅い梅雨明けが宣言された翌日、太子伝会(たいしでんえ)を開催中の真宗大谷派・井波別院瑞泉寺を訪ねた。木彫りの工房がずらりと並ぶ表参道には提灯が掲げられ、山門前には露店が立ち、境内を多くの人が行き交う。青い空、山の緑、蝉の声。木の香りが心地良い廊下に立つと、大人になってからはすっかり忘れていた夏の嬉しさが蘇ってくる。

太子伝会とは、南無仏太子像(聖徳太子二歳の尊像)を御安置する瑞泉寺の太子堂にて、聖徳太子の生涯を八幅の御絵伝を通して9日間かけて語り伝えるもの。一年に一度7月下旬に行われ、通常非公開の宝物や山門の楼上も公開されるほか、週末にかけてはビアガーデンや模擬店の並ぶ町をあげての太子伝観光祭も催される。

「瑞泉寺を開創された綽如(しゃくにょ)上人は、この土地に太子信仰があったために京都からここへ来られたんです。浄土真宗と太子信仰を合わせていただいていこうとされたのでしょう。瑞泉寺は井波彫刻の発祥地でもあります。聖徳太子はお寺の建て方等も教えた師でもありますから、聖徳太子を敬うのは井波大工・彫刻師においてはとても大事なことなんです」

朗らかにお話しくださるのは輪番の常本哲生さん。井波彫刻発祥の地として伽藍に施された木彫の数々が圧倒的な瑞泉寺だが、建立にまつわる逸話も興味深い。

瑞泉寺を開創された綽如(しゃくにょ)上人は、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗・本願寺5代。この地域にはもともと聖徳太子を敬う太子信仰があり、親鸞聖人は太子を大変敬う人だったため、綽如上人はその太子信仰とともに歩んでいく浄土真宗を開いていきたいとして、井波の地を選んだという。

当初は寺院の建物はなく、綽如上人は今の瑞泉寺の背景にそびえる杉谷山に住んでいた。そうしたなか、都でも賢明さを知られていた綽如上人は、わずか6歳で天皇になった後小松天皇の依頼で宮中へ出向き、中国は「明」から送られてきた難解な手紙を読み解く。

「その内容が、富士山を分けてほしいというものだったらしいんです。そんなことできるわけないやろと。弱ったなと。どう返事したらいいか、天皇もまわりも皆困った。そこで綽如さんが考えたのが、富士山を包む風呂敷を送ってくれ、そうしたら送りかえします、という話です」

綽如上人の機転の利いた対処に天皇は大変喜び、褒美に勅願所(ちょくがんしょ:天皇に認められたお寺)として建てることを許されたのがこの瑞泉寺だったという。

「ただ、お寺を開くことは認められても、お金をいただいたわけじゃない。そこで勧進状という、天皇公認のお寺を築きたいという御触れを、能登・加賀・越中・越後・信濃・飛騨に回したんです。当時においては勅願所という名前をいただくのはものすごいことであり、そのためにお金が集まったんだと思います」

今も瑞泉寺に遺る勧進状は重要文化財に指定されており、太子伝絵の期間中だけ宝物殿に展示される。

建立以来、北陸の浄土真宗信仰の中心地として人々の信仰を集めてきた瑞泉寺。その瑞泉寺をひときわ特徴的づけているのが、井波彫刻発祥の地としての歴史だ。

瑞泉寺は信仰の拠点というだけでなく、井波彫刻の技を集めた象徴的な場でもあり、街における存在感は殊に大きい。

瑞泉寺は1390年の建立以来、天正9年、宝暦12年、明治12年と大きな火災で3度建物が焼失している。

井波彫刻は宝暦12年の焼失後、瑞泉寺再建のため東本願寺から派遣された本山お抱えの大工や彫刻師たちの一人に、地元井波の大工たちが弟子入りしたことに始まった。

「再建には彫刻を得意とする井波の多くの大工、職人が関わりました。今も残る山門の「波に龍」は、京都の彫刻師、前川三四郎によるものです。その技術にとても感銘を受けて、四人の井波大工が前川に弟子入りした。これが瑞泉寺が井波彫刻発祥の地とされる由縁です」

京都の彫物大工からの教えを受け、寛政4年(1792年)に井波大工が再建した式大門の「獅子の子落とし」。ここに井波彫刻が始まるとされる。

その後また明治時代に本堂と太子堂が焼けてしまうのだが、その際は井波大工が棟梁になり、日本で4番目の大きさとされる現在の巨大な本堂を再建した。

太子堂の再建は大正7年。34人の大工と彫刻師が建築にあたった大工事だった。この頃から彫刻師達は多くの門弟を受け入れるようになり、従事者数が飛躍的に増えていく。

太子堂に施された彫刻には、約200本のノミを使いわけて彫られるという、井波彫刻の技が集積している。特に屋根を支える「手挟み(たばさみ)」は圧倒的だ。

立体的でいくつもの層をなす造形にはいくつかのパーツを作って後から組み合わせる工程を想像するが、そうではなく、一本の木から彫りだされたものだという。内側を透かすように彫る技があるのだそうだ。

井波では今も約200人の職人の工房が、瑞泉寺へ続く八日街通りに軒を連ねる。また町中には日本で唯一の木彫を専門とした職業訓練校があり、彫刻を志す人が全国から門をたたく。

わずか4人の大工に始まった井波彫刻は、東本願寺や日光東照宮などの寺社彫刻、昭和に入ってからは住宅の欄間彫刻といった用途において技巧が深められ、井波という街を大きく特徴づけるものになった。

人口約8000人に対して約200人が木彫職人だという木彫りの街、井波。江戸時代に発祥した木彫が、全国的にも珍しい街をつくるほどの地場産業へと発展したのは何故なのだろうか。

「それは、信仰というものと切っても切れない何かがあるのでしょう。お参りしながら信仰心をもって彫刻をする、このお寺に自分の作品をお供えさせていただくというところへ懸命に彫り進めていく。そういう時代の背景に、生きてる人間たちはここに掲げてある先代、先々代の技術を教科書がわりに見られるわけです。で、ここはあかんなあとか、自分やったらこうやるなとか考える。お寺がひとつの象徴的なものとしてあったのは大きかったと思います」

明治の再建時には本山から借り受けた資金を返済するため、太子巡回という、太子御絵を持って家々をまわり、絵解説教をすることで、御浄財を集めた。そうして地域における太子信仰が再び深まったことが、今日までの太子伝会を繋いできた。

聖徳太子を祀る法隆寺は世界最古の木造建築として知られる。太子と瑞泉寺、井波の町が「木」を介して繋がるような感覚を覚える。綽如上人がこの土地を選んだこと、それ以前に太子信仰があった頃から、ここには木と深く関わる地脈のようなものがあったのかもしれない。

瑞泉寺が開いてきた浄土真宗の教えについて尋ねると、常本さんは自身の経験を交えながらユーモラスに、答えはないものだから自由に考えていいのだと断りながら話してくれた。

「簡単にいうと、念仏すれば仏になるということです。ただ簡単すぎて、どういうこと?となりますよね。うちのじいさんばあさんは、右手に皺、左手に皺があるやろ、これを合わすんや。皺と皺が合わさったらな、幸せになる。そういう言い方で教えてくれたんです」

幸せになるならば手を合わせよう。しかし幼い頃は純粋に手を合わせていた常本さんも、反抗期の中学高校時代には、こんなことで幸せになるわけがない、と手を合わせなくなった。

「しなくなって、自由奔放というか、これをやりたいあれをやりたい、若い頃はなんやかんやあると思うんです。でもこうして僧侶の職について、お参りさせていただいたり、いろんな方とお話させていただいたりするなかで、自分に都合のいいものに考えていた幸せというものは、実は私を育ててくれた人たちのことを思い浮かべる手立てのことなのかもしれない、と思うようになりました」

自分自身が手を合わせる瞬間瞬間に人を思い浮かべることで、亡き人と、生きているものがつながっていく。生きると死ぬとは別々のように思うけれども、生きていないと死ねないのだから、死は生きていることの延長にある。ならば亡くなった方向から生きている人間を支えてくれることもあるのではないか。それを伝えるのが仏教かもしれない、と常本さんは言う。

ある日お寺に遊びにきた子どもたちが、山門の龍の一方にある髭がもう一方には無いことを見つけた。後から宮大工に尋ねると、髭がないのは未完成なのだという。わざわざ遊び心というなかに未完成な部分をつくり、後世の人々に施してもらう余地を残してあるのだと。

山門に限らず、境内の繊細な木彫は欠けたり壊れたりすることもある。そこへ今を生きる職人が手を加え直していくことで、技が受け継がれていく。

「井波の職人は、ここにきて親父や祖父さんの作品をみて、先人の想い願いというものをいただくんです。来られる人みんなそうですよね。建物や彫刻を通じて先人の願いをいただく。ここではそういう形で、諸仏と現在を生きる者との出遇い繋がりというのを代々いただいてこられたのでしょう」

写真:中村億  文章:籔谷智恵

INFORMATION

真宗大谷派 井波別院瑞泉寺

住所:富山県南砺市井波3050
電話:0763-82-0004
拝観時間:9時〜16時半
休館日:なし(要確認)
拝観料:500円(高校生以上)

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